心を無くすことが癒すこと?
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「無」になる。
「無」になるとは悟りに近い状態でしょうか。
定期瞑想会を毎月、丸3年継続させていただきました。
その中で、瞑想とは?という問いに、「無」になることだと多くの方からお答えいただきました。
では、「無」になれるか?という問いに、なれるという答えは聞いたことがないように思います。
考えないようにする、考えを消す、感じないようにする、感情を消す。
これらの結果が「無」でしょうか?これらは無視という表現が近いのではないでしょうか。
無視の先に悟りがあるでしょうか。悟りとは無視でしょうか。
訓練されていない心は恐れのために、心は弱いものと感じます。
そしてその弱さ故に、心を無くせば、心が動かなくなれば、癒されると信じています。(ここで信じているという言葉の意味は、心は本当は強いと思えない人全てに当てはまります)
その結果、多くの方が無意識に「無」を求めてしまいます。
瞑想とは神との合一、という明確な定義があります。
ここまでお話ししてきた「無」では神をも無視してしまうのではないでしょうか。
【無】というのは神と自分を隔てるものを無くすという意味ではないでしょうか。
神と自分を隔てるものとは、「無」に関係する考えや感情ではないでしょうか。
だとすれば、その「無」に関する考えや感情は、まずきちんと感じてあげることから始める必要があります。
感じることで初めてその奥にある本当の声が聴こえてきます。
その本当の声を聴くことで、神と自分を隔てるものを無くしていけるのではないでしょうか。
瞑想に必要なのは、「無」ではなく【無】ではないでしょうか。
鍼灸治療に【無】が必須であることを強く感じています。
お読みいただきありがとうございました。
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